言語化が伸びる
自分の思考や想い、感じたことを言葉にするのって、簡単そうで結構難しいと感じます。
ぼくは、言語化というのが今後大きな課題になると考えています。
「トーク」「スピーチ」といったものは、昔から題材にされていますが、それとは異なります。もちろんこれらも高めていくに超したことないスキルだと思いますし、喋ることが優先される仕事であれば身につけておきたいです。
ただ、極論言うと「必要な人には必要だけど、無くても致命的な障害にはならない」とぼくは考えています。
反対に危惧しているのが、『日本語同士でもコミュニケーションをとるのが難しくなっている』ということです。
日本語同士のコミュニケーション障害
例えばあなたの会社内でも部署や課が違えば全然話が通じない、なんてことありませんか?相手が何を言っているのかわからない。メールも解読できない。
相手の置かれてる環境がごく当たり前で周知の事実であるかのように自分に喋ってくる。「自分って~、見かけによらず甘いもの嫌いじゃん?」って話しかけられるのと同じレベルです。こっちからすると、「知らね~よ」って話です。(笑)
一方で、自分が相手に対して起こしている可能性だってあります。意図して相手をパニックにさせようという作戦であれば別ですが、
相手を納得させたり、伝えたいものがあるのに伝わらない、反対の方向に話が向かっていってしまう、全然理解してくれない、というのは避けたいことでしょう。
まずは、『自分の言語と相手の言語が異なる』ということだけでも最低限理解しておくことです。
双方がここを理解した状態であれば、自然と互いに言葉の調節がしやすくなりますよね。
言語のチューニングですね。
言語の相違は当たり前
共通の言語が異なるのは当然のことで、例えば企業でいう「部」や「課」という1つのコミュニティの中で取り組む事項や内容が異なります。目に見えるもの、聞くもの、触れるもの、関わるもの全てが異なるわけですから使用する言葉が異なります。
その使用する言葉によって概念が生まれます。
シンプルな例を一つ、ぼくは仕事柄制作に関わる業務が多いのですが静止画でも動画でも「レイヤー(層)」という言葉が出てきます。動画や写真の上に文字を入れたり動画や静止画を複数層重ねたりするのに使います。そのため、「層(または階層)」という概念が生まれます。
でも概念がない人からすれば、
「1枚に収まって(見えて)るから1枚なんだろ?」という主張をします。
どうやらある一定の人はよく飲み込めていないという現象が起こります。普段そういう見方をしていないのであればそうなるのかもしれません。自分たちは当たり前のように使っているし、概念があるため制作に限らないシーンでも「レイヤー(層)」という概念を利用して話をしたりします。意識的にというよりも、もう自然の状態になっています。
でも概念が生まれてしまうと、反対にそう見えない方のことを想像するのが困難になってきます。おそらく両者で障害が起こりうるのはこういったケースではないでしょうか。
どちらにも悪意はないのに全く通じない不幸が訪れるわけです。シンプルな例ですが、多かれ少なかれ日常的に身の回りで起きています。
おもしろいですよね。
言語化の訓練
即時描写です。見たもの、聴いたもの、触れたもの、感じたことをありのまま言語化する。そして、抽象化させたり自分の意見やエピソードを即座に並べて擦り合わせたり整理しながらも展開する。
自分の心の奥底にモヤモヤと感じることはあっても、表現することって思ってるほど簡単じゃないと感じることでしょう。
何も話すことだけが言語化ではなくて文字として起こすことも言語化です。
よく広告の業界では、コピーライター、デザイナー、アートディレクター、クリエイティブディレクターって細分化された役職があるくらいです。言葉を決めるのに何人も携わったりします。たかが言葉のようでされど言葉なんです。発注する側も安くはない費用払うわけです。(人件費がかさばっているからね。)
それだけ言語化するというのは大きな市場なんですね。
しかし、言語化する行為自体は、特別なものではなく誰にでも機会均等に割り当てられています。
これから先、自身とどう向き合って行くか?
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